こっそり善行について騙る:強制される善意とは何か

ひとはみな、善行をおこなう衝動をアプリオリに持っているのではないのか。

 

 

先日、

 

   

善意を求めるのはかまわないが

   

善意を強制してはいけない

 

という意見を目にしました。学校における先の大震災の寄付金集めに関するものでした。

 

むずかしいですよね。たとえば私立の金持ちの子息が通う学校で、新しい学内スポーツジムを建設すると言うような場合、父兄は競って寄付金を持ってきますよね。名前が出るから。

 

 

 

普通の貧乏学校の場合は、寄付金額がインフレを起こさないように

 

   

みんなでxxx円寄付することにしましょう

 

と決めてしまう安易な手段を採ってしまい勝ちです。

 

読書感想文のために読む本を

 

   

課題図書

 

となどといって選んでもらわないと何も決められないような児童と父兄ばかりなのです。

 

なので担任が決めてしまう。

 

で、後になって、それに噛み付くバカの相手もしないといけない。というわけです。

 

   

全員に寄付を強請するのはいかがなものか

 

 

 

こんなもの善意の強制でもなんでもないんです。

 

寺社へ遠足に行って、賽銭をひとり10円と決めておくのと変わりありません。

 

# それにも信仰の自由が云々とかうるさいことをいうどこぞの小国民もいるけど

 

 

 

XXX円の寄付は、みんなで寄付エクスペリエンスをするための授業料であって、善意もなにもないわけです。

 

 

 

 

 

もちろん、ひとりひとりの善行の価値観とは違っているので、対立が生じるわけでしょうけどね。