以前、仕事の打ち上げの昼食会で、こんなことがありました。
そこはうなぎ屋の座敷で、店主の趣味なのか、狭い和室の座敷の端にジオラマがかざってありました。
ちなみに鉄道模型ではありませんでした。
混んだうなぎ屋で、手持ち豚さんで誰ともなく、
「ジオラマ」って英語なんですか?
という話になりました。
ごみためまんは、子供のころはお小遣いが少なくてプラモデルであそんだりはほとんどしませんでしたが、友人の家かどこかで読んだ模型雑誌で、
ジオラマはフランス語でかつ造語
と記憶していました。どうせ手持ち豚さんの話のネタなので、
私の記憶が確かなら(IIRC)、
ジオラマはフランス語でかつ造語(エッヘン)
と騙ってもよかったのですが、その場では、いろいろめんどうなので知らない振りを通しました。
そもそも
ジオラマがフランス語だったらどうだってんだYO
造語だからって、それが堂下産業
でもあれってホントなのかなぁ。
という程度のトリビアなのです。
そのような虚無にとらわれた心では、人は無口になっていくものなのです。
以前なら、
そうそう、俺も思い出した。
そのジオラマって言葉を作った人の
作品展を△△△美術館で観たことあるんだ。
というような如何にも鼻につきそうなインテリ層的に話をあわしてくれるオサーンもいたのですが、最近はさっぱりです。
意見はかみ合わなくても、会話が成立する相手がいるというのは実は幸福なのだと最近思うようになりました。
エ~そうなんですかぁ~
知らなかった~
というのは会話の数に入らないのです。なんともつまらない。
あとどうでもいいんですが、いまどきは3Dプリンタ(さんでーぷりんた)で、ジオラマなんかは全自動で作っちゃう時代になっているんですか?