わかりやすい自然言語表現

 

本来木構造であるものをシリアライズする必要あるんですかね?

 

わかりやすい文章の書き方を指南する本を読み進めていくと、むなしくなってきます。

客観的で応用しやすいルールを見つけるたびに、

そんなの日本語エディタが勝手に

やってくれればいい話じゃないか。

なんで人間様がいちいち些末なルールを覚えて

運指しなきゃいけないんだ?

と思ってしまうからです。

 

かといって、

(私 見た (走る (白い (犬)) ))

と書きたいわけではありませんが。

いわゆるルールベースの

エキスパートシステムは

そのような記述を自動的につぎはぎ

してくれる便利なツールだとは思います。

ただ、自然言語に書き下してくれないと

「専門家しか出力を読み取ることができない」

という間抜けな方の”エキスパートシステム”

になり下がってしまうわけですが。

 

この問題を考えるたびにひっかかるのが、

命題Aは正しい

という文章を書く時の

命題Bが正しいように思われているが

実は命題Aが正しい

というような書き方についての表現です。

そもそもわかりやすい文章として、そんな前置きは必要なのでしょうか?

ただ、

命題Aを説明して

それが正しい

とだけ書くべきなのでしょうか?

いちいち命題Bを取りあげるのは、議論を模して命題Aの正しさを説明する様式美の一環だと思うのですが、それは無駄なんでしょうかね。

聖書の類は、そんな話が9割です。昔の本もそうです。

たぶん「批判」てやつだと思うんですが、

批判を説明して話題を定義し

解法を示す

みたいなパターンランゲージを自動化したいんですかね。

 

いまどきは計算機が立派な小説を自動生成する時代らしいですから、こんなクソブログくらい、準自動化できて当たり前だと思うのですが、まだ到達できませんね。