忘れないようにメモ

当たり前の話なんですが,映像を再生して観るというのはですね,カメラの視点と観客の視点,2つの視点があるわけなんです。

詳しくは撮影の基礎・入門編,などの書籍に当たっていただきたいのですが。

例えば遠景で風景の映像,ゆっくりパンしている場合などですね,手前の足元の地面以外は全部ピントが合っているわけです。これを画面上で眺める場合,見ている人は視点が自由です。フレーム内に写っているものならなんでも見つめることが出来ます。→このとき,目玉は画面までの数mにピントを合わせている

この映像を撮影した場所へ実際に行って自分の生の目玉で見るとですね,また違うわけです。そもそも人間の視野というのは真ん中の部分と周辺に分かれてましてね,周辺については細かい情報は得られません。肉食動物系だからなのでしょう。→このとき,目玉は数十~数百m先の風景にピントを合わせている(実際には数m以上は無限遠で同じ。ただし訓練に寄る模様)

ぶっちゃけると周辺視野はぼやけます。

カメラの仕組みと目玉の仕組みはそれほど違いが無いので,カメラで写したものもピントが合う周辺以外はぼやけます。しかしこの100年ちょっとの歴史を通じてカメラという目玉で見たままの映像といのはほとんど用いられません。効果を狙って使うことはあるでしょうが,ほとんどはなるたけ広い範囲がボケないように,レンズの組み合わせを変えてしまいます。その辺りの話は写真技術と根っこが同じではあります。

例えば,前後に並んだ二人の人物の表情を対比させて観客に見せるためには,同時に両方の顔にピントが合わなければなりません。しかし実際にその場に居合わせた人手さえ2人の顔を同時に見ることはできないのです。相対的に同じ距離でないなら。同じ距離であっても,2人がかなり近くにいないとダメです。

ピントのズレをいくらがんばって擬似的に表現したとしても限界があります。人工映像のリアリティという時に,目指すものが映画などの映像表現の道具としてなのか,目玉の視覚に取って代わるツモリなのかで全然話が違うんです,という話です。

自分で書いていても訳が分からなくなってきました。メモはこの辺で。