シミュレーションゲーム仮説における1周目仮説

シミュレーション宇宙仮説

たまに、「この宇宙全体が仮想宇宙」という仮説を耳にするのですが、全部シミュレーションする必要ありますかね?

主体がインゲンなら、せいぜい生存圏だけシミュレーションすると思うんですよね。メガゾーン23やダークシティみたいに。

死んでしまうとはなにごとだ=GAME OVER?

ごみためをご覧になっている皆さんは、死んだらどうなるかどのようにイメージしているでしょうか?

ごみためは以下のスクリーンが視野いっぱいに広がると予想しています。

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= GAME OVER =

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つづいて、スコア表示です。

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= SCORE ヘタクソ=

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そのあともいろいろ表示されると思いますが、たぶん最後はこれです。

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= CONTINUE? =

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転生の定番

それで考えたのですが、よくある伝統的な宗教における輪廻転生は、同一世界の別時間が想定されていますよね。

現代的な転生では別世界の別時間が多いようです。

ごみためはちょっと違う仮説を持っています。それが「1周目仮説です。」

1周目仮説

いわゆるタイムループもので知識や装備を持ち越せるタイプの話がありますが、基本的にはあれと同じです。

この不自由な世界は「1周目プレイヤーのための世界」ではないか、という仮説です。

死んでCONTINUEしたら、知識をすべて捨てて別の人として生まれ変わるという伝統的な宗教の転生においても、まれに前世の記憶を持っていたり、魂として経験を積み重ねたりすることが推奨されたりしますよね。

そこが違うと思うんですね。ごみための予想では死んでCONTINUEしたら、知識は持ち越しだけど、その世界にいるプレイヤーはみんな「2周目」っていうルールだと思うんです。

生まれた日も場所も同じ。大きなイベントや歴史的な事件がどう変化するかはルール次第だとは思いますが、ほかのプレイヤーもそろって2周目なので、基本同じことは起きないですよね。

2周目を生きる人の価値観

「1周目」と決定的に違うのは、「死んでもそこで終わりではない」とみんな理解しているってことです。

つまり、死への恐怖は相対的に小さいですよね。

不幸な人生を歩んだ人は、うまくやり直せるかもしれません。やり直せないと思うなら、CONTINUEしなければよいのです。

死に対する恐怖が相対的に小さいからといって、ライフを粗末にする人はそれほど発生しないと思います。なんでかというと、1周目で死んだときのCONTINUE画面に残ライフ数が表示されないからです。

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= CONTINUE? =

=    ♡♡♡    =
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2周目では、知り合いもみんな2周目です。死ぬ時間も場所もバラバラなのに、一体どうやってそんな世界を成立させるのか想像もつきません。

ですが、お互い知り合いなのですから、生きやすいですよね。嫌いだった人も避けやすいです。

CONTINUEしなかったプレイヤーは?

たぶん別の時間、別の世界へ飛ばされますよね。

となると、2周目の世界ではCONTINUEしなかった人が存在しないことになります。

まぁ、一人称のプレイヤー以外の中身が魂の入ったインゲンか、AIが操作しているNPCかは、実はどうでもよいということなのかもしれません。

自分がNPCじゃないという自信はどこからくる?

映画Free Guyを観てもまだ自分がプレイヤーだと信じられる人は幸せかもしれませんね。

もし、ライフに限りがなく、なんどでもCONTINUEできるのであれば、好き勝手に暴れまわってライフを無駄にする人がいてもおかしくありません。

それは2周目が始まってから判断するしかないですね。

根本的な疑問

ゲームのプレイヤーである真の私の魂(仮)の知識や経験をプレイ中に使えないという仕様だけが、理解できません。

世界に没頭し没入するためのシカケだとしても。

この仕様だと、真の私の魂(TSM=TrueMySoul)の何かを評価したり、判定したりすることもできませんから。

もしかして仕様ではなくてしょうもないバグだとすると、我々プレイヤーはゲーム世界に取り残された哀れなSAOプレイヤーのような状況なのではないかと心配になります。

既視感

という話を昔何かで読んだか、読んだツレから口頭で説明されたかした記憶の断片が残っているのですが、あれは何という作品だったでしょうか?